上野駅中央コンコースに思う

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上野駅中央コンコースを通るたびに、今は亡き恩師の歯科医が、酔うと口ずさんでいた「ああ上野駅」が聞こえてくる。東京駅丸の内コンコースに比べ、薄暗く垢抜けない感じだが、高度成長期の昭和の匂いを残していてホッとする。
朝6時54分人影もまばらな中、クリスマスツリーと酉の市のポスターそして巨大なおかめの熊手、この異質なものが調和して存在できるのがこのコンコースの懐の深さだろう。それは、自らの存在をことさらに主張しない器の魅力ともいえる。

駅舎の売店の新聞は、一斉にパリでのテロを報じている。国家レベルの戦争も個人の喧嘩もそしてテロも、対立が形を変えたものである。
対立は自らの存在が脅かされるところに、その根本的原因がある。私たちは「差別化」という言葉を良く使う。それは「自己の存在意義」を「他者との差別化」から見出し、「他者からの承認」によって成立させている。
私たちは習いとして染みついた「差別化」を、往々にして「あなたとは違う」という言葉に代えて、自己の存在を主張しがちだ。

この「あなたとは違う」を繰り返すことで、知らず知らずに他者の存在を侵害している。
世界も組織も個人間も上野駅中央コンコースのような存在になるには、異質な者同士が優劣競う前に相互理解が必要に思う。

異質な者同士が生きるためには、上野駅中央コンコースで「ああ上野駅」を口ずさむのも悪くはない、と思いながら米沢に向かった。