健康保険の価値観を変えるために

「金儲けがなぜ悪いんですか!」物言う株主として企業経営者にプレッシャーを与えていた、いわゆる村上ファンド代表の村上世彰氏は記者会見で叫んだ。その映像を見て、「この人、なに言っているんだ」と思ったのは、“失われた10年”と世の中で言われていたころです。日本経済の回復について喧々囂々としているとき、新時代の旗手みたいに世間でもてはやされていたのが、ライブドアの堀江貴文氏です。この2人の出現によって、金を儲けるのは凄いことだという価値観に傾斜する人が増えてきました。生きるために金儲けをするのではなく、金儲けをするために金儲けをする人が大っぴらになったのが平成でした。

市中の書店で、お金についてのビジネス書が平積みされたのもこのころです。歯科界では、予防歯科を語りながらもビジネス書まがいのことを発信する歯科医師が登場したのもこの時期です。「こんなものは嘘八だ」とすぐにわかりましたが、予防歯科の一派はビジネス書などと相まって営業的予防歯科として混然と広がっていきました。

それは、営業的自費治療以上に業界の汚点といえます。自費治療の場合は治療結果と治療費の出どころがはっきりしています。消費者庁や厚生労働省がなんと言おうとも、結局は合意した歯科医師と患者の問題であり、治療費も個人責任で完結しています。一方、営業的予防歯科の場合、その効果と結果がはっきりしません。費用の出どころの多くは、社会の財産である公費です。さらにリスクコントロールの名目での定期的リコールは、患者との合意形成が曖昧な場合が少なくありません。社会が健康保険の財源確保に汲々としているときに、定期的リコールによって公費の蛇口を開け放しにすることは、社会の方向とコミットメントしていません。疫学的根拠、医療経済的効果、公益性など、すべてがボヤっとしているのです。

平成はバブルの絶頂で幕を開けましたが、平成元年をピークに日本経済は長い下り坂を経験することになります。歯科界はといえば、下り坂になった経済の影響を受けることもなく、むしろ一般企業の雇用調整弁として人材採用も活発になり、歯科医院経営は堅調でした。健康保険制度のもとで、ドリル&フィルをベースに営業的予防歯科を行い、気の利くスタッフさえいれば、まだマーケティングやマネジメントなどと小難しいことを考える必要はない時代でした。経営に関わるステークホルダーとして税理士がいれば事足りたのです。生活費=専従者給与、遊興費=交際費・福利厚生費・旅費交通費・研究費、所得隠し=貯金等、といったように勘定科目をいかに歯科医院の都合に合わせて会計で付け替えるかが、このころの一般的歯科医院の経営的ニーズだったからです。まあ、まだ儲かっていたということです。

しかし、その後の“失われた20年”と呼ばれる時期になると、歯科界も減速感が明らかになりました。それは経済や景気の外的要因よりも、歯科界の内的要因である過当競争の結果、生活者の権利意識の高揚による歯科医院選別の影響を受けてのことでした。歯科医院経営が下り坂になると、私は多忙を極めました。というのは、フリーアクセスの健康保険制度のもとでは、歯科医院が過当競争になるほど、便利な場所での医院経営はアドバンテージが高くなります。そのため、都市開発や商業施設に医療機関のリーシングをしていた私に、目端の効く歯科医師が殺到してきたからです。そういった歯科医師の多くは、短期間で黒字化し節税対策を兼ねて3~4年で分院展開していました。

便利な場所を求めて分院展開をする歯科医師の多くは、財力にまかせて企業買収や経営への介入によって金儲けをしていた村上氏や堀江氏の縮小コピーのようです。当時、世間の多くは村上氏たちを喝采していましたが、今では経済界をはじめ世間から排斥されてしまいました。彼らの「会社は株主のもの」という主義は、経済理論としては正しいことですが、社会を不安定にします。情緒力に欠ける人が駆使する論理は、自己正当化に傾くために、世間から反発を買うのです。ほとんどの株主はキャピタルゲインを目的にしていて、その会社自体には愛情をもたない人たちです。儲け目的の株主の方が、会社に愛着を持って働く従業員よりも重要とする主義が席巻すれば、世の中は暗澹たる雰囲気に覆われるでしょう。翻って、便利な場所で分院展開をする歯科医師の主義は村上氏と堀江氏の系譜に位置するように思えます。歯科医師という職業に対する愛着よりも、ビジネス展開すること自体への関心が勝るからです。

当時はMS-Windows95が発売され10年経ったころで、世間の仕事にはIT化が当たり前とされていました。それにともない経営革新や戦略戦術といった言葉が経済誌に踊り、歯科業界ではパラダイムシフトという言葉がよく使われていました。ですが、営業的予防歯科が都市開発や商業施設で盛業するさまを見ていて、決して歯科界で経営革新や戦略戦術などが本気で必要とされることはないと思っていました。歯科医院経営は健康保険制度の微調整に準じていれば安泰で、少なくとも平成前半に180もの金融機関が破綻したような事態はありません。健康保険制度をより習知し、よけいなことは考えない・しないことが、盛業するための鉄則です。健康保険の出来高制やフリーアクセスを知れば知るほど、わざわざ経営革新を起こす気持ちがなくなるのは、当たり前のことです。目端の効く歯科医師ほど、健康保険制度に準じた臨床とリコールをして、便利な場所で大規模化したりチェーン展開したりしていたのが平成年間でした。

営業的予防歯科と便利な場所でチェーン展開することが、平成の歯科界のロールモデルでした。このような医院を方々で見てきましたが、どれも一見斬新なようでしたが、結局は昭和の発想から脱却していませんでした。人口減に立ち向かうための生産性向上を怠り、昭和の頃と同じ人手のかかる組織を漫然と抱え続け、健康保険ベースの経営で今に至っています。

このような歯科医院をいつまでもロールモデルとして崇める業界の傾向には辟易させられます。金をたくさん儲けている、ただそれだけで、「凄い」「偉い」と持ち上げられ、挙句の果てにはYouTubeにまで登場しています。「このセミナーに参加して売り上げが倍増しました・・」などと、世間に業界の恥と自らの無教養さを撒き散らしているにも関わらず、誇らしげな様子には絶望的な気持ちになります。「金儲けがなぜ悪いんですか!」と叫んだ村上氏と同じ穴のムジナです。あなたたちの金儲けがいいか悪いか「自分の胸に手を当てて聞いてみな」と、村上氏や堀江氏に、そして件のYouTubeの歯科医師には、あなたたちの臨床がいいか悪いか「自分の胸に手を当てて聞いてみな」と、問いたい気持ちです。

金儲けが悪いことだとは思いません。生活するために金儲けをする。世の中のために金儲けをする。人が生存するため、社会を発展させるため、未来を切り開くために金儲けをすることは、正当なことです。何のための金儲けか、金儲けをするための金儲けではないか、その動機や目的を自らに問い質してみることが、歯科医師には必要とされます。この当たり前のことを、昭和、平成を通じておろそかにしてきたことが、歯科界の不人気、凋落につながっているように思います。

YouTubeで「売り上げが倍増しました!」と言えば、何のために健康保険医をやっているのかと、生活者は感じるのです。金儲けをするために歯医者をしているのかと、思われるのです。このような振る舞いから、歯科界は世間からバッシングされ、社会からの疑問はさらに深まりました。その結果、世の中は“失われた20年”からめきめきと力を取りもどしましたが、未だ歯科界は“失われた30年”の中で迷走しています。

健康保険をベースにする歯科医師は、本来は経営のことを考えなくていい職種です。さらにいえば、金儲けのことなど知らなくとも余裕のある生活が保証される仕事でなければなりません。そのための国家資格です。しかし、歯科界・厚生労働省・文部科学省のパス回しからオウンゴールを連発して、“失われた30年”を作り出してきたのです。しかも、失点をするたびに、そこが既成の事実となり、今の状況はこうだと言うことが前提で、その前提の内側で論議を重ねてきています。その中で進歩的な意見を言うか、保守的な意見を言うかという差だけのことで、歯科界には考え方に普遍性というものがないのです。ですからいかさま師のようなコンサルタントと一緒になって、現状脱却のための金儲けの仕方に躍起となり、インターネット上で成績発表までする浅はかな歯科医師が出てくるのです。

歯科医療がヘルスケアやウェルネスサービスの価値生産に方針を切るのであれば、健康保険の疾病保険というあり方から問い直すのが普遍性というものです。ロビー活動の前に、健康保険法のあり方を国民に問い直すべきです。個々の医院でヘルスケアやウェルネスサービスの価値を生活者に伝えることが、その第一歩です。いわゆる予防のスタディーグループなどは、企業や団体にヘルスケアやウェルネスサービスの価値を伝え、大きな生活者集団から健康保険の価値感を変えていくべきです。普遍性を追求するための基本的なこともしないで、患者誘導心理学まがいのことや、自費治療導入の作法を学んでも、それは競合歯科とイタチごっこしているだけで状況は何も変わりません。

「健康保険の価値感を変えるなんて途方もない」と思うでしょうが、ここをどう考えるかが歯科医師としてのスケールです。その方法は先述したボヤっとしている疫学的根拠・医療経済的効果・公益性を明らかにして、世に問うことがスタートラインです。そうは言っても人の頭の中は99%が利害得失で占められていますから、歯科界のため、世のため人のため、そんな余計なことはしたくないのが人情というものです。しかし、残りの1%を何で埋めるかが、非常に大切です。例えば、この1%を「健康保険の価値感を変える」ために考え行動できないか、そんな歯科医師が真のエリートだと思います。

残りの1%を金儲け以外のことで埋めることのできる歯科医師が増えることで、世の中から選ばれる歯科医院が増え、歯科界は地力をつけて、健康保険の価値感をも変えることができるのではないかと思います。もうぐずぐずと考えている余裕はありません。元号の変更を機に、世間の健康保険の価値観をパラダイムシフトし“失われた30年”の負の記憶から抜けだす一歩を踏み出す時です。