2026年10月、カスタマーハラスメント対策がすべての事業主に義務付けられた。歯科医院も例外ではない。歯科医師会などから院内掲示の参考文面が配布され、患者に対してカスハラ防止の方針を示す動きが出ている。
ただし、法律が求めているのは、事業主による防止方針の明確化、相談体制の整備、被害への対応などであって、すべての歯科医院が同じ警告文を待合室に掲示することではない。
医療従事者を理不尽な要求や暴言から守ることに異論はない。しかし、こうした参考文面をそのまま患者に提示することには、少し違和感がある。歯科医院によって患者層も診療方針も異なるからだ。長年にわたって患者との信頼関係を築いてきた医院と、日々多くの新患を受け入れる医院では、患者とのコミュニケーションのあり方も違って当然だろう。
そもそも、医療には一般のサービス業とは異なる法的責任がある。歯科医師法第19条の応召義務である。正当な事由なく診療を拒んではならないという規定は、患者が必要な医療を受ける機会を守るためのものである。一方、カスハラ対策は、医療従事者の就業環境を守るために事業主に課された義務である。
この二つは対立するものではない。厚生労働省も、患者の迷惑行為によって診療の基礎となる信頼関係が失われた場合には、新たな診療を行わないことが正当化され得るとしている。ただし、診療の緊急性など、個別の事情を考慮しなければならない。
そして、もう一つ厄介なのがGoogleの口コミである。
患者は医療機関を自由に評価できる。待ち時間、受付の対応、説明の印象、治療への不満など、その評価基準はさまざまである。しかし、患者が感じた満足度と、提供された医療の専門的な質は必ずしも一致しない。
歯科医院は、守秘義務や個人情報への配慮から、口コミに対して具体的な診療内容を明らかにして反論することが難しい。患者と医療機関の間には、情報発信上の非対称性がある。
もっとも、口コミを否定しても仕方がない。患者が医療機関を選ぶ際の情報源として、すでに社会に定着しているからだ。医療機関にとって口コミは、好むと好まざるとにかかわらず、マーケティング環境の一部になっている。
ここで歯科医院経営者が考えるべきことは、応召義務、カスハラ対策、口コミを一つの問題として扱わないことである。
応召義務は医療提供に関する法的責任であり、カスハラ対策は労務管理と組織運営の問題である。そして口コミは、患者が医院をどのように認識し、評価するかというマーケティングの問題である。それぞれ性質が異なる以上、対応も分けて考える必要がある。
そのうえで重要になるのが、歯科医院のポジショニングである。
例えば、予防歯科を中心に、患者と長期的な関係を築くことを診療方針としている歯科医院では、患者との信頼関係そのものが医療の基盤になっている。こうした医院が、暴言や迷惑行為を列挙した警告文を待合室の目立つ場所に掲示することが、果たして適切なのだろうか。
もちろん、スタッフを守るためのルールは必要である。しかし、患者へのメッセージは、互いに尊重し、安心して診療を受けられる環境を大切にするという、医院の理念に沿ったものであってよい。院内では具体的な対応基準を整備し、患者には医院の姿勢を伝える。この二つを区別すればよいのである。
一方、初診患者が多く、診療内容も多岐にわたる都市型の歯科医院では、診療方針や予約ルール、対応できない要求を明確に伝えることが、患者との認識の違いを防ぐうえで有効かもしれない。こうした医院では、カスハラに対する方針を比較的明確に掲示することにも合理性がある。
口コミへの対応も同様である。
患者との長期的な関係を重視する医院であれば、口コミの件数や評価点を追いかけるよりも、医院の診療理念や予防医療の考え方をホームページなどで丁寧に伝える方が、ポジショニングとの整合性が高いだろう。反対に、初診患者の獲得が重要な医院では、口コミが医院選択に与える影響を無視することはできない。ただし、評価を上げるために患者の要求へ迎合することと、患者の経験を改善することは別の話である。
どちらが正しいという問題ではない。医院がどのような医療を提供し、どのような患者との関係を築きたいのかによって、取るべき対応は変わる。
法令を守ることは、すべての歯科医院に共通する最低限の条件である。しかし、法令への対応方法まで、すべての医院が同じである必要はない。
カスハラ対策のポスターを一枚貼ることは簡単である。Googleの口コミに一つひとつ返信することも、それほど難しい仕事ではない。しかし、それが医院の理念や患者層、診療方針と整合していなければ、単なる対症療法に終わる。
歯科医院の経営者に必要なのは、法律に従うことと、マーケティングに振り回されないことを両立させる判断である。
その医院が医療市場の中でどのような立場を取り、どのような患者との関係を築いていくのか。そのポジショニングを理解したうえで、法令への対応、スタッフの保護、患者とのコミュニケーション、そしてマーケティングを一貫したものとして設計することである。
法律は共通でも、経営の答えまで共通である必要はない。

