2025年も、まもなく幕を閉じようとしています。 歯科医院経営の現場、そして一人の市民としての生活。今年ほど「社会保障」や「税」の重みを、痛みを伴って感じた一年はなかったのではないでしょうか。
国民負担率は50%に迫り、終わりの見えないインフレが経営を、そして個人の生活を侵食し続けています。 この一年の締めくくりに、私が長年大切にしてきた一編の論考を、今の時代の数字に置き換えて書き直しました。
元になったのは、作家の橘玲氏が2004年に発表した「国民年金未納者の主張」というエッセイです。
20年前に彼が突きつけた鋭い問いは、2025年の今、さらに冷徹なリアリティを持って私たちの前に横たわっています。私たちが2026年という新しい年を迎える前に、一度立ち止まって考えたい「問い」です。
【エッセイ】国民年金未納者の主張 ―― 2025年の視点から
国民年金加入者のうち、実質的な未納・未加入者は依然として膨大な数に上る。 彼らは「公的年金は不公平だ」と制度を叩くが、その批判は自己矛盾に満ちている。未納者が増えれば、その負担を払わされるのは厚生年金に縛られたサラーマンや、必死に経営を維持する歯科医院経営者である。隣人にツケを回しながら「公平」を語るのは、単なるわがままだ。
では、未納は単なる自分勝手な振る舞いなのか。
私は未納者ではないが、彼らに代わってその論理を研ぎ澄ませてみたい。
近代社会を支える原理は「自由」と「自己責任」だ。 私たちは法の範囲内で自由に生きる権利がある。そのかわり、結果に対する責任も自分一人で背負わなければならない。この「残酷な自由」を引き受ける自律した個人こそが、本来の「市民」であるはずだ。
現在、日本は人生100年時代という長い航路を突きつけられている。 そこで未納者は問う。
「人生100年のうち、最初の20年は親に依存し、後半の40年は国家の年金や医療扶助に頼る。人生の半分以上を第三者に依存して、それが果たして自立した個人と言えるだろうか?」
歯科医師も、そして患者も、保険制度という「公助」の枠内でいかに得をするかという損得勘定に染まってはいないか。 メンテナンスの必要がない者に通院を強いて回数を稼ぎ、あるいは自らの健康管理という自己投資を怠ったツケを制度に回す。その姿のどこに「プロフェッショナル」の、あるいは「市民」の矜持があるのか。
誰もが国家に過剰な期待を抱き、過大な負担を要求するから、議論は常に見苦しくなる。解決策は、実は極めてシンプルだ。
「自分のことは自分でやるから、放っておいてくれ」と皆で決めれば良いだけだ。
想定可能なリスクは、本来自己責任で管理すべきものだ。「長生きのリスク」が手に負えないと言うなら、平均寿命を超えた時点からのみ給付する真のセーフティネットに特化すればいい。
もし未納者に、国家からのあらゆる経済的恩恵を放棄する覚悟があるのなら、これは国家と国民の関係に対する本質的な批判になり得るだろう。 だが残念なことに、これほどの「自律」を主張して未納を貫く者は、今の日本にはどこにもいない。皆、ただシステムの不備を呪いながら、国家という名のお仕着せの安心にしがみついているだけなのだ。
(橘玲氏の2004年の論考をベースに、現在の情勢に合わせて加筆・構成)
2026年に向けて
2025年が私たちに突きつけたのは、「依存」というシステムの限界でした。 橘玲氏が20年以上前に鳴らした警鐘を、私たちは今のこの景色の中でどう聞くべきでしょうか。
予防歯科とは、単なる口腔ケアの提供ではありません。患者さんに「自らの健康を自分で管理する」という主権を返して差し上げる、究極の自立支援です。 そして歯科医師側もまた、制度の歪みに翻弄されるのではなく、プロフェッショナルとして自らの足で立つ「自律」が求められています。
2026年、私はこの「自律」という言葉を胸に、皆さんと共に歩んでいきたいと考えています。本年も、私の拙い言葉にお付き合いいただきありがとうございました。 どうぞ、静かなる新年をお迎えください。

