予防歯科の知的資本論
新型コロナ禍を生き抜く歯科医院の対策(4)

「グローバル、デジタル」って、いい加減ウンザリしませんか?

政府の専門家会議が打ち出した『新しい生活様式』の中で、『食事は対面でなく横並び』『食事の際は料理に集中し、おしゃべりは控えめに』と聞いたとたんに、森田芳光監督の『家族ゲーム』の食事のシーンが脳裏に蘇りました。

医療者は自然科学に基づく事実を語ると、時として人の本質から離れた映画の世界のようなになってしまうことがあります。その典型が先の専門家会議の記者会見の模様です。『新しい生活様式』の内容は、“新しい”と銘うちながら人権標語のようで、居心地がよさそうではありません。それは専門家会議の提言は、ミクロの視点からパンデミックを平時に近づけることに向いていて、生活者の日常や社会経済に対してのアイデンティティーがないために居心地を感じないのです。

しかし、歯科医院はそうはいきません。歯科医師がミクロの視点でこれからのことを考えると、医院経済は縮み、脆弱な財務基盤は崩れていきます。そうかといってコロナ以前の体制を続ければ、診療自粛を経験した生活者は、それをすんなりとは受けいれてくれません。いずれにしても、コロナ後に生活者のアイデンティティーを掴みきれないと、歯科医院の経済回復は難しくなります。こんな話も、緊急事態宣言解除後も依然として人の流れが元には戻らない都心を歩いていると、決して杞憂ではありません。つい3ヶ月前、インバウンド拠点として賑わっていた銀座は不気味な静けさに覆われていました。コロナ後の不況は現実となりつつあります。

不況時には、生産性の低い企業から生産性の高い企業に人や資金が移ることで、新たな経済成長の原動力になります。この予兆が歯科業界にも起きています。4月から5月にかけて、歯科業界の中で歯科衛生士の雇用調整と解雇が行われましたが、それは水ぶくれした歯科医院経済の証です。今は、そのしわ寄せは歯科衛生士に向かっていますが、延長線上には歯科医院が存在しています。コロナ禍で離職・求職に転じた歯科衛生士の動向が、歯科業界の未来を左右します。彼女たちが介護や医科その他の業界に流出するようになると、水ぶくれした一歯科医院の経済問題では済まず、それは業界の人的資産の流失という問題です。歯科業界は「グローバルだ。デジタルだ」って、喧騒に包まれていますが、足元の資産が流失している現実に、業界が抱える矛盾を感じなければなりません。

コロナで世の中のさまざまな無駄が浮き彫りにされています。歯科業界も例外ではなく、平成以降、歯科医院の経済を下支えしてきた予防歯科は、国(厚生労働省)により不要不急、つまり「今は無駄」とされました。そんなレッテル貼りがなかったとしても、デフレが続く世の中では、予防歯科の供給過多に、生活者はうすうす気がついていました。端的にいえば、飽きられてきていました。それは社会保障制度上で、歯科衛生士を配置する装置産業化していく予防歯科への問題提起でもあります。いい前例があります。1957年以降、狂犬病清浄国である日本で、依然と続く狂犬病予防接種を季節キャンペーン化した獣医師業界の生産方式です。狂犬病予防接種は装置産業化に成功しましたが、今ではさまざまな無駄に気がついた飼い主は、年々犬の予防接種をしなくなってきています。

社会保障制度の合理的な活用はミクロの視点からなされますが、その理念や価値の理解はマクロの視点が必要です。社会保障制度を担う仕事の意義、つまりマクロ視点が、歯科医療者にはあまりありません。本質的なことを知らない歯科医療者の言葉は軽く、おきまりの歯科的な言葉に少しのお愛想では生活者の深いところにまでは届かないのです。このことは、歯科医療者のミクロとマクロの視点のバランスが崩れた結果です。社会保障制度の合理的活用が限界点を超えた時、歯科業界に何が起こるのか、コロナ禍は明らかにしています。

コロナ以前の歯科業界ではマクロの視点をもつことは、生産性の低い歯科医院になる傾向がありました。一方でミクロの視点をもつことで生産性の高い歯科医院になることができました。しかし、コロナはこの相対的評価を一転させる感があります。コロナ後はマクロの視点を持ち、社会の基盤システムに関わる歯科医院に人や資金が移る機運を感じます。その一例として、産業界は従来の歯科医師とは異なった観点を持つ歯科医師の出現を歓迎し、必要としています。コロナ後の社会で大事なことは、時代や人々に本当に求められている予防歯科のあり方を目ざすことです。今現在の状況と関わっていなくても成立すること、いつの時代でも通用すること。量の拡大ではなく質の向上を目ざすことです。

不況が不況ではなく平時となる時代に歯科医院が生きるには、経済苦を時代や制度のせいにしない。むしろグローバルとデジタルの速度に流されない予防歯科の普遍を確立して、社会から長く必要とされることを目的にしたいものです。顔の見えない大きな数字に終始しない、具体的な誰かのことを考える予防歯科を当たり前にする。嘘がなく誠実で、手間と時間をかけること。その最初には「人の役にたちたい」「社会に必要とされたい」というシンプルで純粋な動機が予防歯科の普遍性に通じていきます。

こんな話をすると「何を洒落臭い」と思う向きは多々いるでしょう。確かにそうなのですが、洒落臭いことができる100年に1度のチャンスがパンデミック後の今です。資本主義社会の日本では、社会は生産力と生産関係からなる下部構造と、その上に築かれた理念やイデオロギーなどの上部構造から形づくられています。社会ができる過程で下部構造は上部構造に先行して存在しているため、上部構造は下部構造によって規定されます。ですから身も蓋もない言い方をすれば、どれほど高尚な理念やイデオロギーであっても、基本的には経済という金勘定の都合に左右されるのです。ホスピタリティーと100万回唱えたところで、歯科医院もまったく同じ道理の中で生きているのです。

ところが、固定化されている下部構造にコロナという激震が走り、社会構造にあつれきが生まれ変化がおきています。その一端が、国から降りてきた『新しい生活様式』なわけです。これは日本社会の上部構造、つまり精神性の変化と解釈しています。歯科医院も国民皆保険制度施行から59年間でつくられた下部構造の上にのる精神性を変えなければ、社会との同時代性にズレが生じてきます。歯科業界は三種のデジタル神器がイノベーションを引き起こすと信じているようですが、それはまったくの錯誤です。デジタル神器は単なる生産方式のデバイスにすぎませんから、それだけではイノベーションは起きません。歯科医師の精神性の変化が、イノベーションを引きおこす原動力になるのです。

確かにコロナ以前の日本社会、ひいては歯科業界を前進させるためのキーワードはグローバルとデジタルでした。この言葉を私たちは多用して、時代の推進力と信じてきたきらいがあります。私もその一人です。ただそうした認識を持ちながらも、それだけでいいのだろうかとも思ってきました。それだけで人々は豊かな日常をおくることができるのだろうかと。そこには人々の気持ちという視点が抜けています。気持ちというロジカルな説明をしづらいものの中にこそ、イノベーションが生まれる可能性があるのではと考えています。

そんなことから、コロナ後の社会の前進力を図るキーワードは、『居心地』ではないだろうかと。「こんなあいまいな言葉は、イノベーションにそぐわない」とMBAホルダーには言下に退けられそうですが、パンデミック対策から使われはじめたソーシャルディスタンスという言葉は、居心地のよさという人々の気持ちにも通じています。シアトル系コーヒー店は座席間の狭さから敬遠してきた私ですが、コロナ禍で隣席との距離が広がり、今は居心地がよく感じています。これもソーシャルディスタンス効果です。

よくよく考えてみると、人々の時間と距離を縮めてきたグローバル化とデジタル化は、居心地のよさを人々に提供してきたでしょうか?それらは、そうした人々の要求を顧慮するものではなく、そもそもベクトルが違っているのです。グローバル化とデジタル化をつくりだしてきたのは、社会の財務資本であって、ソーシャルディスタンスや居心地のよさは、社会の知的資本によって生み出していくものではないでしょうか。

平成以降、歯科医院の財務資本となってきた予防歯科ですが、コロナ後には社会の知的資本に転換してはどうでしょう。社会を居心地よくする予防歯科です。予防歯科を診療室の中の生産方式から、社会の基盤システムにすることで、予防歯科は不要不急から必要不可欠な存在になります。グローバルやデジタルのような高揚感を歯科業界にもたらしはしませんが、それは、静かな、しかし確かなイノベーションです。
予防歯科で居心地の良い社会を!予防歯科を社会の知的資本に!