売る気ゼロの歯科医師はなんともカッコ良い

歯科医院のホームページから飛びこんでくるものは、科学的医療者の言葉ではない。生活者目線の歯科医師の言葉でもなく、一語一語が収益を産むための言葉、お金のにおいを発しています。治療結果よりも収益。目先の集客、当座の金欠問題を解決するためのキャッチコピーがほとんどで、そのさまは沈みかけた船での座席争いの狂騒曲が極みに達しようとしている感じです。古くは「インプラント」から、今では「マウスピース矯正」「かみ合わせ治療」「予防歯科」から“買って! 買って!”のキャッチコピーの狼煙があがり、その火炎は医療人のインテリジェンスを焼きつくし、残ったものは歯科医療のビジネス化という気がします。

こんな状況はどこからきているのか、真剣に考えたことがあるでしょうか。歯科業界はグローバル化! デジタル革命! と騒がしいのですが、それによって浮上するのは歯科関連企業と一部の商売上手な歯科医院です。従来の良心的歯科医師が得意としていたリレーションシップ医療は、産業構造の改革によって新しい分野を開拓しなければ、商売上手な医院の一人勝ちになるのは明らかです。その理由は簡単に言えば、歯科医療をビジネスと割りきれる歯科医師と同じ市場で競いあうことになるので、大型化やデジタル化の差は歴然と利潤利率にあらわれるからです。つまり医療人を貫くことは、一将功成りて万骨枯る覚悟がいること、商売上手は栄えて医療人は疲弊する歯科業界で生きていくことになります。

こんな状況は新自由主義を標榜し、グローバル化! デジタル革命! を推進する政界ではすでにおきています。大胆な金融政策、機動的な財政政策、成長戦略を柱とする「3本の矢」の行方はどうだったでしょうか。名目GDPや出生率の実績は目標に遠く及ばないそれは、マウスピース矯正でまさかの歯根吸収で揺らぐ感じの不安な社会でしょうか。「3本の矢」の眼目の金融政策も物価上昇率2%目標の的を大きく外して7年半、その矢もつきる顛末はマウスピース矯正でかみ合わせまで崩され、根拠希薄な「かみ合わせ治療」のコンサルテーションを聞かされる退廃した社会の出現です。

それもこれも、グローバル化! デジタル革命! と国民受けを狙うあまり実現を裏づける根拠にとぼしい目標を立てて、その達成が危ぶまれると、「地方創生」「一億総活躍」「全世代型社会保障」といった内実の伴わない新たなキャッチフレーズを次々に繰りだし、目先を変えて7年半の史上最長不倒は、コロナ禍の中、保険点数改定でなんとなくハッピーエンドな「予防歯科」といった感じです。

しかし歯科医療はそうそううまくはいかないでしょう、生活者は甘くはありません。金融政策や財政政策と比べて、歯科診療は生活者にとって身近で切実な問題です。キャッチコピーやイメージで7年半もまどわされはしません。たとえ歯科リテラシーが少なくとも、グローバルやデジタルにうとくとも、生活の問題として怪しいものを察知する嗅覚が人々にはそなわっているからです。

歯科医療も政治もSNS時代の潮流に合致したタイムリーなコピーで、生活者に清新な印象や最先端な印象を与えるだけでは到底いいわけがありません。歯科と政治のどちらも根拠と結果に真価が問われているからです。自分の身に起きたことの根拠と結果を知る権利が人々にはあり、人々の身に起きたこと起きそうなことへの説明責任が、政治家にも歯科医師にも職責としてあることは言うまでありません。

さかのぼればインターネット黎明期に、マーケティングやマネジメントといった活動が利益を生むことをわりとまじめに学んでいましたが、当時はキャッチフレーズ(言葉)の良し悪しで収益が何倍も違いを生むなんていう話は、聞いたことがありませんでした。しかし、その当時たまたま参加した読書会で手にしたジョン・ケーブルズの『Tested Advertising Methods』は、天野祐吉さんの広告論を世相論として読んでいた私には衝撃的でグローバル化の洗礼を受けた思いでした。

それは、うまくいく広告とうまくいかない広告がなぜあるかを突きとめた書籍で、3ステップ方式で広告をクリエーティブで効果的なものにすることを目ざし、それまでのコピーライティング、デザイン、テストの仕方を大きく変えるものでした。ケーブルズの広告システムはインターネット社会になった今、より効果的なレスポンス・マーケティングになった一方で、大きな弊害も引きおこしています。この頃から「思い」を伝えるキャッチフレーズは、「利益」を誘導するキャッチコピーへと変わっていきました。

今ではケーブルズの広告方式をベースにしたレスポンス広告はネット上を草刈り場として、新聞・TVなどの広告審査ならばはじかれてしまうコピーを毎日のように生活者に送り続けています。生活者の関心を引くことを目的としているため根拠やデータの真偽など二の次で、誘引的で誇大なキャッチコピーの洪水がネット上にあふれ、レスポンスの高さやアクセスの多さが言葉の価値になってきました。このことは政界や歯科業界だけのことではなく、どの業界でも同じで、ドナルド・トランプのTwitterがいい例です。

インターネットの普及によって出版不況は加速しましたが、当の出版社自体がネット上でのマーケティングに傾注するさまは痛々しくさえあります。古くは本の書きだしの数ページが売るためのツボでしたが、それがインターネット黎明期には装幀のデザインに代わり、インターネットの普及にともない本の帯にあるキャッチコピーが売るためのツボになっていきました。あげくのはてには装幀や帯のコピーから、出版関係者が書きこんだネット通販の口コミへと誘導して拡販へとつなげていくのが、売れる本の鉄則となってきています。帯のキャッチコピーからアマゾンの口コミへ誘導、本屋は本屋で平積みされた本のポップからレジカウンターへ誘導することが、販売促進のセオリーとなってきています。

気がつけば、政治も歯科業界も本屋も“買って! 買って!”のシュプレヒコール。気のきいたキャッチコピーは一時的に人々の耳目を集めても、社会にまんえんする物事の本質に至らず、各業界の根本的な問いから目をそらすことにならないでしょうか。過剰な作りこみや内実のないキャッチコピーがあふれるホームページに食傷気味の私には、売る気ゼロの歯科医院のホームページはなんとも頼もしくカッコ良く見えます。

イタチごっこのマーケティングに呆れた私の心情を射る一文に出会いました。
「当時の岩波文庫の棚は暗かった。裸本に帯を巻いて、その上を透明なグラシン紙で覆っただけの装幀だった。そのグラシン紙が店頭でどんどん劣化して茶色くなっていく。だからどの本がどれかわからなくなる。そうした売る気ゼロの岩波文庫が中学生の僕にはたまらなくかっこよく見えた。」

(早稲田大学教授の都甲幸治さんの『「街小説」読みくらべ』から引用)

さすがに今では岩波文庫はグラシン紙でおおわれてはいませんが、ごくシンプルな装幀で良書に過剰な宣伝は不要とする矜恃があらわれています。

政治家のキャッチコピーやSNS、歯科医院のホームページ、本の帯コピーは、ひと息で発音できる心地よさを社会に吐きだし続けています。彼らは見出しだけですべてがわかった気になる言葉が、優れたキャッチコピーと考えていて、中身は問わない。しかも、そういった思考停止のキャッチコピーを多用すればするほど、政治家ならば支持され、歯科医院ならば自費が増え、本ならばベストセラーになると思いこんでいる節があります。

問題は、思考停止のキャッチコピーを安易に流布させると、そのコピーが指ししめすところの内容についてその言葉を発する彼ら自身を磨きあげていくことが次第に困難になることです。キャッチコピーによって場あたり的な対応に終始しなければならなくなり、社会には内実が伴わない政治家や歯科医師、そして書籍があふれかえっていくように感じます。

どうやらケーブルズの提唱した広告は、今の世の中には歪められて広まってしまいましたが、ケーブルズの慧眼は現代社会を予見していたかのように「広告とは教育である」といった趣旨を著書の中で説いています。以前はケーブルズに刺激を受けたものですが、今では正反対の売る気ゼロの岩波文庫のような歯科医師の出現が待望久しいこの頃です。