歯科医院の予診表には、その時々の地域の歯科医療ニーズがあらわれています。およそ10年前に20医院400枚の予診表の来院理由を整理したことがあります。予診表欄にチェックされた主訴はといえば、むし歯由来が6割、歯周病由来が1割、検診・予防由来が1割、補綴由来が2割で、来院者の大半がむし歯かそれに関する修復治療という印象を持ち続けていました。
それでも8020達成率50%を達成した2016年ごろには、さすがにむし歯6割に対して歯周病1割ということはないのではとは思ってはいましたが。当時から4年経過した昨年、ある組合健保に歯科医療費比率の説明を受ける機会がありました。「歯周病由来」が10に対して「むし歯由来」の治療費支出が1という説明を受け、「そんなことがあるの?」と違和感を覚えました。別の健保組合で歯科医療費の科目比率の質問すると、同じような数字でした。
以前の予診表の主訴比率が頭にあるために、歯周病由来が10に対してむし歯由来が1という数字は、にわかに信じがたいものでした。予診表の数字から10年、8020達成率50%から4年がたち、国民の意識も口腔状態も変化してきたのでしょうが、それにしても歯周病10に対してむし歯1という数字は、国民の口腔内の実態をあらわしているとは思えません。
そこまでに歯周病のニーズが上がっているのなら、Google の検索キーワードのボリュームにも反映されているのではと思い、調べてみました。すると、1位歯列矯正 2位ホワイトニング 3位むし歯 4位歯周病 5位インプラントという順の検索件数。ネットではニーズとウォンツが混在して表出されているのでしょうが、3位のむし歯は月間で約100,000アクセスに対して4位の歯周病の約94,000アクセスは、市場経済を反映したものでしょうが、健保組合の数字のような不自然さは感じません。
ネット上の数字の非合理性を差しひいても、健保組合の歯科治療費の歯周病とむし歯の比率10:1という数字は、やはり違和感をぬぐえません。このことを何人かの歯科医師に聞いてみると、意外そうな表情をしながらも、しばらくすると納得した感じで、なにやら不可解なようす。
不合理を感じたときは、うがった見方をするにかぎります。そこで、素人目線で疑ってみました。予診表やネット上に顕在した数字以上に、生産性を上げるために潜在する何かを歯科医療者が掘りおこした結果が10:1であると想像してみると、なんのことはない、10:1という数字は、歯科医療者の労働者としての”意見”で国民の口腔内の実態とはいい切れない側面を表しているのです。保険点数・算定要件・施設基準を合理的に運用したのは明々白々で、10:1という数字は歯科医療者のウォンツと考えるべきでしょう。それはルールにのっとって活用したのですから、目くじらをたてることではありませんが、歯科医療の未来が少し気になります。
保険点数が高くなれば、より少ない人数で今までと同じ保険点数を生産することができます。その場合、経済規模が同じなら、院内失業者が生まれてしまいます。一方で現行の労働法のもと、院内失業者をむやみには解雇することはできませんし、統制経済の健康保険制度のもとで保険医は、制度が有利な時に稼げるだけ稼いでおきたいのが人情です。こうして、雇用を守るため、可処分所得を増やすために、絶えず経済規模を拡張していくような強迫観念にかられて、外部環境の変化に弱い大型化やチェーン展開する医院になる傾向があります。
そうやって保健点数の大量生産へと舵をきった歯科医院は、生産性向上のループから抜けだすことができない。人口減少が進もうと、労働力人口が減少しようと、大型化・チェーン展開に突きすすみ、近年の急速な高齢化と人口減少による患者減に加え就業者不足という外部環境に起因する生産性の限界にはまっていきます。近年では、高度成長期に人口密度が高くなった都市部周辺地域に展開した法人分院の廃院が、人口減少の影響を受けての廃院が目につきはじめています。これなどは装置産業化した歯科医院が、生産性の限界に落ちた典型といえます。都市部でも、集客力の高い施設に集中展開する医療法人歯科が、ベンチャーキャピタルから経営支援を受けて、実質的乗っとりにあう事例があります。これは、限りない生産性の向上を目指して、限界突破に失敗したけ結果といえます。
規模に関わらず医院内部で起きる生産性の限界に「生産性の罠」があります。保険制度のタスクを分解し単純化(マニュアル化)することで、業務習熟度を向上させ生産性を上げるという大いなる勘ちがいです。マニュアル化することにより、働く人の意識までも単純化が助長されていくと、何事にも楽をして考えなくなり仕事が単純作業化していきます。作業化された診療体制に患者満足度は落ち、その結果、生産性が下がっていくことになります。
そもそも歯科医院は「生産性の罠」におちいりやすいのです。それはその根本原因が歯科医院の内部環境と外部環境によることよりも、現行の健康保険制度の欠陥にあるからです。歯科医師が、医学的見地からみて最適な診療行為をおこなったときに、それが歯科医院の経営的観点から、必ずしも収支のバランスをもたらすものではないということ。医学的最適性と経営的最適性の乖離は、一方では医の倫理という深刻な問題を内包しています。歯科医療に投下された希少な保険財源の配分は「生産性の罠」によって著しく歪められるという状況を生み出しています。
例えば、老朽化した施設、耐用年数を過ぎた医療機器、診療目的や内容を充分説明しない、消毒滅菌は国際水準に満たないなど、なにもしない歯科医院ほど生産性は良くなるのです。こんな逆進性からも、歯科医院の「生産性の罠」は他の産業では考えられない統制経済がもたらす弊害といえるでしょう。
ここまで書いてきて、本ブログはあまりタイピングが進みませんでした。
というのも、統制経済下の国民皆保険制度は、社会保険医療機関として歯科医療を通じて公益性を守り、公助を行うことで機能を発揮します。ところが、近年の新自由主義的な政策に引きずられるように、歯科医師全体が経済的に自由になれば社会の利益が最大にできるという考えに傾斜し、公益の柱の一つである社会保障から離れていっているからです。
歯科業界で日常的に生産性という言葉を使う事態が、その傾向を端的に表しています。歯科医院が「生産性の限界」から逃れるには、国民皆保険制度の原点に戻りひたすら公益を追求して生産性を求めないか、財源のリスクを国民皆保険制度に求めることなく、産業化して品質と信頼性をとことん追求するのか、どちらかに舵をきることしかないでしょう。さて、あなたの医院はどちらの針路を選びますか。