開示命令が「日常」になった日

開示命令が「日常」になった日
― 歯科医院はGoogleクチコミとどう向き合うべきか

発信者情報開示命令の申立件数が、2025年に初めて1万件を超えた。2022年に導入された制度が、わずか数年でここまで利用されるようになったのである。かつては弁護士に相談しても、「時間も費用もかかります」と諭され、結局は泣き寝入りするしかなかった。現在は、匿名投稿者の特定を以前より現実的に検討できるようになっている。誹謗中傷に対して、社会がようやく相応のコストを払わせる仕組みを持ち始めたということだろう。

もっとも、この流れをそのまま歯科医院のGoogleクチコミに当てはめることはできない。低評価のすべてが、法的に違法性を問える誹謗中傷ではないからだ。むしろ歯科医院に寄せられる悪いクチコミの多くは、悪意ある中傷というより、医療者と患者との情報の非対称性から生じた誤解や感情の表明である。

患者は治療の医学的合理性を判断するための十分な材料を持っていない。だから「痛かった」「高かった」「説明がなかった」「態度が悪かった」という感情が、そのまま星一つの評価になる。医療という専門性の高い領域では、正確な事実関係よりも、そのときに感じた不満の方が強く、長く記憶に残る。治療が医学的に妥当であったかどうかと、患者が満足したかどうかは、残念ながら別の話なのである。

しかも、この情報の非対称性は、クチコミが投稿された後も解消されない。患者は診療内容について自由に書くことができる。しかし歯科医院側は、守秘義務と個人情報保護の制約があるため、「実際にはどのような説明をし、どのような診断に基づいて治療したのか」を具体的に明らかにできない。事実関係を説明しようとすればするほど、その患者の受診歴や治療内容に触れざるを得なくなるからだ。

つまり、患者は具体的に批判できるが、歯科医院は具体的に反論できない。最初から対等な言論空間ではないのである。事実と異なることを書かれても、「個別の診療内容については回答できません」としか返せない。説明すれば守秘義務に触れ、沈黙すれば投稿内容を認めたように見える。なかなかよくできた不合理な仕組みである。

その不合理さを知っているからこそ、あえて返信しない歯科医師も少なくない。私はむしろ、そこで反論を慎み、患者の秘密を守ることを優先する歯科医師こそ、賢明で誠実な医療者だと思っている。言い返す材料を持っていないのではない。持っていても、それを公に使わないのである。それは無関心でも、クチコミ対応を怠っているわけでもない。沈黙すべきところを知っているという、医療者としての節度である。

ところが、Googleビジネスプロフィールという仕組みの中では、その誠実な沈黙が正しく評価されるとは限らない。返信がなければ、クチコミを読む第三者には医院側の事情が伝わらない。患者の秘密を守るための沈黙が、「反論できないのだろう」「事実を認めているのだろう」と受け取られる。医療倫理を守った結果、医院の評判を静かに損なっていく。これほど割に合わない話も、そう多くはない。

だからといって、すべての低評価に法的対応を検討すべきだという話ではない。患者の主観的な不満と、事実に反する投稿、さらに権利侵害や業務妨害に当たる悪質な投稿は分けて考える必要がある。通常の不満には院内の説明や接遇を見直し、Googleの規約に反する投稿には削除申請を行う。そして、明らかに事実と異なり、医院の信用を著しく毀損する投稿については、弁護士への相談や発信者情報開示命令も選択肢に入れる。その判断を感情的な正義感ではなく、経営上のリスク管理として行うべき時代になったのである。

2026年6月に公表された最高裁のまとめによれば、2025年に全国の裁判所へ申し立てられた発信者情報開示命令は1万72件。前年の6779件から約1.5倍に増え、そのうち9割を超える9343件が東京地裁に集中した。これは首都圏で被害が多いからではなく、大手プロバイダーの本店の多くが東京都内にあるためとみられている。

従来は情報開示までに1年ほどかかるケースも多かった。ところが、新たな手続きにより、東京地裁で2024年末までに終局した事件の平均審理期間は約103日まで短縮された。もちろん、申し立てれば必ず投稿者を特定できるわけではない。それでも、時間と費用の前に諦めざるを得なかった法的対応が、経営上の現実的な選択肢になり始めた。これは、Googleクチコミの不合理さに黙って耐えてきた歯科医療者にとって、心強い変化ではないだろうか。

誠実な歯科医師ほど、クチコミの前では沈黙する。その姿勢は医療者として正しい。しかし、誠実であることと、無防備であることは同じではない。患者の秘密を守りながら、医院の信用も守る。そのための線引きを、歯科医院もそろそろ持たなければならない。