公園から遊具が消え、歯科医院から診断が消える
――バイアス、かかっています。

社会学者の北村匡平さんは、禁止事項の看板が増え、遊具が撤去されていく近所の公園を「窮屈になった日本」の縮図として捉えています。事故を防ぐためにルールを増やし、危険をなくすために遊び方を限定する。その結果、公園は安全になります。しかし同時に、子どもが自分で遊びを考え、危険を見極め、失敗から学ぶ機会は失われていきます。

この構図は、日本の歯科医療と国民皆保険の関係によく似ています。

子どもにとっての公園が、歯科医師にとっての保険診療です。どちらも社会に開かれた公共財であり、経済的な事情にかかわらず、誰もが一定のサービスを受けられるように設計されています。公園は子どもに遊ぶ場所を提供し、国民皆保険は国民に医療へのアクセスを保障する。その社会的価値を否定する余地はありません。

問題は、公共財が安全性と公平性を求めるほど、そこで許される行為が標準化されていくことです。

公園では、「何をしてはいけないか」が細かく決められます。保険診療では、「何をすれば、いくら支払われるか」が細かく決められています。両者に共通しているのは、結果よりも手続きが管理されることです。ルールどおりに遊べば安全であり、算定要件どおりに処置すれば診療として成立する。制度の中にいる限り、自分で考えなくても大きくは間違えないようにできています。

その代償として、子どもは想像力と、ベネフィットとリスクを秤にかける感覚を失っていきます。

本来、遊びには小さな危険が伴います。少し高いところへ登り、転びそうになり、どこまでなら大丈夫かを身体で覚える。危険をすべて取り除けば事故は減りますが、危険を判断する能力まで育たなくなります。安全とは、危険がないことではなく、危険を理解し、扱えることだったはずです。

歯科医療でも、同じことが起きています。

保険診療は、う蝕があれば削って詰め、歯周病であれば検査と処置を行い、歯を失えば補綴するという標準的な対応を定めています。医療の最低水準を全国で担保するうえでは、極めて優れた仕組みです。しかし、制度が処置を中心に設計されているため、歯科医師は「なぜこの病気が起きたのか」「この患者に本当に必要な介入は何か」と考えるより、該当する処置を選び、正しく算定することに慣れていきます。

つまり、診断よりも処置が先に立つのです。

診断とは、病名を付けることだけではありません。患者の生活背景、疾病リスク、病変の進行性、治療によって得られる利益と失われるものを見極め、介入するのか、経過を見るのかを判断することです。ところが、制度が用意した選択肢の中から処置を選び続けていると、その手前にある思考は次第に省略されます。公園に用意された遊具でしか遊べなくなった子どもと同じです。

テクニカルな能力も、制度の影響を受けます。

限られた診療時間と定められた診療報酬の中では、時間をかけて精度を高めることより、一定水準の処置を効率よく繰り返すほうが経営的には合理的です。高度な技術を身につけても、そのために費やした時間や労力が評価されるとは限りません。制度の中では、うまく削ることよりも、早く規格どおりに削ることのほうが正解になる場合があります。

これは、歯科医師個人の怠慢ではありません。制度に忠実に適応した結果です。

人は、評価される行動を繰り返します。診断に時間をかけても評価されず、処置をすれば診療報酬が発生するのであれば、歯科医療が処置中心になるのは当然です。制度は理念ではなく、配点によって人を動かします。

もっとも、公園の管理基準も国民皆保険も、事故や不測の事態に対するリスクヘッジとしては、非常によくできています。

公園の管理基準は重大事故を減らし、国民皆保険は病気やけがによる経済的破綻を防ぎます。自由に伴う不平等や危険を抑え、誰もが最低限の機会を得られるようにする。どちらも社会に不可欠な公共財です。問題は、その安全網を教育や医療の完成形だと思い込むことにあります。

安全網は、人を落下から守ります。しかし、人を高く跳ばせるための仕組みではありません。

そして国民皆保険は、患者だけでなく、歯科医師も守ってきました。

患者は保険証を持って歯科医院を訪れ、制度が治療内容と価格をある程度決め、審査支払機関が診療報酬の大部分を支払ってくれます。保険診療は医療保障であると同時に、歯科医院にとって巨大な集患、価格設定、代金回収の仕組みでもあります。歯科医師が医療を提供すれば、制度が患者と売上をある程度まで運んできてくれるのです。

そのため、保険点数の低さを嘆く歯科医師は少なくありませんが、保険制度そのものから離れようとする歯科医師は多くありません。制度の外へ出れば、治療の必要性、方法、価格、予後まで自分の言葉で説明し、患者に選んでもらわなければなりません。診断能力や技術だけでなく、自ら価格を決め、その価値を伝え、結果への責任を引き受ける能力まで問われます。

保険制度の中であれば、「点数が低すぎる」と国に責任を向けることができます。しかし制度の外では、患者から選ばれない理由を国のせいにはできません。

鳥かごは、鳥の自由を奪います。その一方で、餌を与え、雨風や外敵から守ってくれます。長くその中で暮らした鳥は、扉を開けられても、外で餌を探し、危険を避けて生きていけるとは限りません。鳥かごに閉じ込められたというより、鳥かごの中で生きることに適応しすぎたのです。

歯科医師も同じなのかもしれません。

国民皆保険という鳥かごは、歯科医療の最低水準を守り、歯科医院の経営を安定させてきました。しかし、その環境に長く適応するほど、制度の外で自ら診断し、医療の価値を説明し、その対価を患者から直接選んでもらう能力は育ちにくくなります。

歯科医師は、鳥かごが狭いと嘆きます。しかし、その鳥かごがなくなれば生きていけないとも感じています。保険点数への不満と保険制度への依存は、矛盾しているようでいて、実は同じ場所から生まれています。

必要なのは、皆保険を壊すことではありません。皆保険が守ってくれるものと、守ってくれないものを理解することです。

公園には、管理された遊具だけでなく、子どもが自分で遊びをつくれる余白が必要です。歯科医療にも、算定できる処置だけでなく、自ら診断し、考え、経過を見守り、技術を磨く余白が必要です。公共財が担う安全性と、専門職に求められる自立を混同してはいけません。

すべての危険を取り除いた公園は安全です。しかし、そこで育つ子どもが、危険を判断できるとは限りません。

すべての診療を保険制度の枠内で整えた歯科医療は公平です。しかし、そこで働く歯科医師が、自立して診断できるとは限りません。

国民皆保険は、歯科医療の最低水準を守ることには成功しました。しかし、歯科医師が自立して診断し、制度の外でも生きていく力まで育てる仕組みではありません。

歯科医師は、鳥かごが狭いと嘆き続けています。けれども本当に恐れているのは、鳥かごが狭いことではなく、いつかその扉が開いてしまうことなのかもしれません。