「そぎ落とし」の代償

「そぎ落とし」の代償

コスパという言葉が、思考の物差しになって久しい。エックス(旧ツイッター)に代表される短文文化は、メッセージを削ぎ落とすことこそ知性の証であるかのような空気を作り出した。人間関係も「最低限でいい」とされ、コロナ禍を経て、対面せずに物事を完結させることまで合理的だと考えられるようになった。効率化の名のもとに、あらゆるものが軽量化されている。

だが、この流れにどうも馴染めない自分がいる。

短文化の背景には、もう一つの事情があると思う。AIやインターネットの発達によって、それまで文章を書かなかった人、あるいは書くことを苦手としていた人まで、情報発信の舞台に立つようになった。もちろん、短い文章そのものが悪いわけではない。しかし一部の人にとって短文は、美学的な選択というより、書く力の乏しさを見えにくくする、都合のいい避難先にもなっている。「短いほうが賢い」という言説は、そうして起きた退化を、進化のように見せるためのナラティブではないだろうか。

コンテンツやメッセージにおける「そぎ落とし」は、本来伝えたい中身そのものを脆弱にすることがある。情報というものは、周囲にある一見「無駄」に見えるものとともに運ばれて初めて、本来の強度を発揮する。これは文章だけでなく、映画や音楽、演劇といった文化的体験にも共通する構造だと思う。

その最たるものが儀式である。

卒業式、結婚式、葬式。誰もが一度は経験するこれらの場は、合理的に考えれば「不要」な要素の塊である。式辞、行進、装飾、沈黙の時間。効率だけを求めるなら、要点を紙一枚で伝えれば済む。しかし、人はそれでは満足しない。儀式が儀式として機能するのは、その「無駄」に見える周辺装置が、伝えたいメッセージを支え、増幅させているからである。

音楽も同じ構造を持つ。人が音楽を聴きたいと感じるとき、本当に求めているのは、音そのものだけだろうか。もちろん、音だけを純粋に求めるストイックな聴き手もいるだろう。しかし多くの人にとって、音楽体験とは音に付随するすべてを含んだものだ。ライブ会場の空気、そこに集まった人々の熱、共に聴いた人との記憶。音だけを抽出すれば、そこに宿っていた力の多くは失われる。

私たちが手がけている予防歯科のコンテンツも、この構造と無関係ではない。

予防歯科を合理的に、ロジカルに説明しようとするほど、なぜか人が集まらなくなることがある。医学的な合理性をいくら整然と並べても、それだけでは人は動かない。主催者や講師に経験がないからではない。その経験が、言葉の周囲にある物語や余白として伝わってこないからである。

なぜ予防歯科に取り組むようになったのか。どのような患者と出会い、何に迷い、何を失敗し、そこから何を学んだのか。そうした一見遠回りに見える背景があって初めて、ロジックは血の通ったメッセージになる。正しいことを短く伝えるだけなら、AIにもできる。人にしか語れないのは、その正しさにたどり着くまでの時間である。

効率化の思想は、メッセージを研ぎ澄ますことはできても、メッセージを生かすことまではできない。研ぎ澄まされた刃は鋭い。しかし、それを振るう腕や、振るう場、振るう意味まで削ぎ落としてしまえば、刃はただの金属片になる。

コスパを追う時代だからこそ、伝えるために必要なものまで、無駄と呼んではならない。そぎ落とした先に残るのが、簡潔さとは限らない。

ときにそれは、よく磨かれた空洞である。