口コミという亡霊

口コミという亡霊

最近、歯科業界を見ていて、どうにも気味の悪いものを感じることが増えた。Googleの口コミである。

私はこのテーマを何度も書いてきた。口コミが歯科業界を少しずつ蝕み、本来は専門家として患者と向き合うはずの歯科医師が、名前も素性も分からない誰かの評価に一喜一憂している。その姿に、強い違和感を覚えるからだ。

もっとも、私の周囲には、それでも口コミを集めようとしない歯科医師も少なくない。口コミが気にならないわけではないだろう。それでも患者に投稿を頼むことはしない。専門職として、そこには越えてはいけない一線があると考えているのだと思う。

患者が感想を書くこと自体は、もちろん悪いことではない。しかし、Googleの口コミには、そもそも「感想」と呼べるほどのものがどれだけあるのだろう。治療の背景や妥当性を十分に理解しないまま、その場の不満や感情だけが書き連ねられているものも少なくない。

もっとも、患者に十分な知識や説明を与えられなかったとすれば、それは歯科医院側の責任でもある。専門家ではない患者に、治療のすべてを理解してもらうことは難しい。それでも、なぜこの治療が必要なのか、どのような限界やリスクがあるのかを、できる限り伝える責任は歯科医師にある。

しかし、説明を尽くしたとしても、医療の妥当性がその場の満足だけで判断されることはある。自分の望む治療をしてもらえなかった、待たされた、注意された——そうした不満が、いつの間にか歯科医院全体の評価へと置き換えられていく。

そのような書き込みに、歯科医師は何を返信すればよいのだろう。そもそも、返信する必要があるのだろうか。診療について説明する責任はあっても、匿名の感情に際限なく付き合う義務まで、歯科医師にはない。そう考えるのが、専門家として健全な感覚ではないだろうか。

昔から口コミはあった。「あそこの先生は丁寧だ」「説明が分かりやすい」。そんな評判が人から人へ自然に伝わっていく。それは、人が社会をつくる以上、ごく当たり前の営みだった。

ところが今、口コミは自然に生まれるものではなく、「集めるもの」になった。患者に投稿をお願いし、コンサルタントは口コミ対策を提案する。さらに、都合の悪い口コミが書かれれば、今度はそれを「消す」業者まで現れた。評価を増やして金を取り、評価を消してまた金を取る。歯科医師の不安は、なかなか優秀な資源なのである。

私は時々、この周辺で商売をしている業者を見ると、ゴキブリを連想する。虫の話ではない。人の不安がある場所に現れ、人目につかないところで静かに増えていく。その生態が、どこか似ているのである。

しかし、本当に厄介なのは彼らではない。悪い口コミを書かれたくない、検索順位を下げたくない、患者を減らしたくない——そうした不安があるからこそ市場が生まれる。業者は需要のある場所に現れただけである。問題は業者ではなく、社会そのものが評価に依存する構造になってしまったことにある。

医療は、本来、そのような世界ではなかった。予防歯科は、十年通って初めて、その歯科医院の本当の価値が分かる。派手さはなくても、地域から長く信頼されている歯科医師がいる。患者に耳の痛いことを言い続けることで、その人の健康を守っている歯科衛生士もいる。そうした価値は、一つ星のレビューでは測れない。

ところが口コミ社会では、顔の見えない患者に「嫌われないこと」が、「正しいこと」よりも優先され始める。患者に迎合し、本来なら伝えるべきことを飲み込む。医療がサービス業であることを意識するあまり、医療であることを忘れていく。それは医療にとって、決して健全な姿ではない。

むしろ、似たような文体と文脈の口コミが不自然なほど並んでいる歯科医院を見ると、私はかえって危うさを感じる。歯科医師自身も、その不自然さには気づいているはずである。それでも不安に耐えきれず、顔の見えない口コミに迎合してしまう。そうして診療の質ではなく、評価の見栄えを整えることに時間と金を使う。医療者は患者の口腔ではなく、スマートフォンの画面を気にするようになる。かくして歯科業界は、静かに劣化していく。

良い歯科医院とは、口コミをたくさん集めた歯科医院ではない。十年後も患者の歯を守り、その人の生活を支えている歯科医院である。しかし、その結果が分かるまで、Googleも患者も待ってはくれない。だから人は、今すぐ目に見える星の数に群がる。

だが、医療の価値を匿名の評価に委ねた瞬間、歯科医師は専門家としての立場を自ら手放すことになる。口コミに支配されているのではない。支配されることを、自分で選んでいるのである。

口コミという亡霊は、勝手に診療室へ入ってきたわけではない。招き入れたのは、歯科医師自身である。